中華そばの歴史と大貫の歩み | |||||||
日本最古の中華そば店は浅草 【来々軒】 | |||||||
明治43年(1910)東京・浅草に庶民相手の日本初の中華そば店が誕生する。その店こそが誰もが一度は耳にしたことのある、最古の中華そば店として有名な『来々軒』。 | |||||||
店主の尾崎貫一氏は横浜税関に勤めていた元役人。52歳で退職した後、日本にはまだ一軒も中華そば屋がなくカツオや昆布でダシをとるのが当たり前の風習だった時代に、売れるかどうか解らない《中華そば》をメインに商売をするという大胆な冒険を試みました。 | |||||||
オープン当初のメニューは{中華そば・ワンタン・シューマイ}の3種類で『中華そばは安くて、うまくて腹一杯になる』と、現在と変らぬキャッチフレーズだったと言います。 | |||||||
特に《中華そば》は豚骨に鶏ガラを加えたコクがあって、さっぱりした関東流の濃口醤油のスープ。焼豚・シナチク・刻みネギを乗せ一杯6銭という値段で売られ、東京最大の歓楽街・浅草で大ヒットとなりました。 | |||||||
その後『来々軒』は第二次世界大戦中の昭和18年に一旦幕を閉じ、戦後の昭和29年(1954)東京駅・八重洲口で再開されるも昭和51年残念ながら後継者がなく内神田の地で終焉を迎えています。 | |||||||
当時の神戸居留地に於いて 日本人で初めての中華そば屋 ≪大貫本店≫ | |||||||
日本初の中華そば屋『来々軒』が浅草で一大ブームを巻き起こした2年後、「中華そば」の味に感激した仙台出身の一人の若者が神戸にやって来ました。 | |||||||
名前は千坂長治(ちさかちょうじ/1889~1944) 浅草『来々軒』の味が忘れられない長治は、大正元年(1912)神戸外国人居留地初の中華料理店・『杏香楼』から中国人シェフの周氏を招きます。 そして当時の居留地に於いて日本人初の中華そば店を浪花町66番館にオープンします。 | |||||||
外国人だけが居留地での商売を許可されていた当時、開業に当たって当局からクレームがありましたが、長治は《中華そば》に対する情熱と中国人を招くと言う裏技を使い警察署長の説得に成功しました。 | |||||||
創業当時は夜になると屋台も10台ほど出動する盛況振りでしたが、如何せん当時としては「中華そば」は大変珍しく屋台を引いた従業員がそのまま帰って来ない「屋台泥棒」が頻発し、やむ得ず屋台引きを中止せざる得なかったと言う話が残っています。 | |||||||
また京都旅行に出かけた初代・長治が現JR京都駅付近で盗まれた屋台を発見し奪還した話や現在の様に舗装されていない凸凹の道を屋台で練り歩くため「鍋がゴトゴトと揺らされ自然と白湯(ぱいたんスープ*白く濁ったスープの事)スープになった」などという逸話が残っています。 | |||||||
因みに終戦後の話ですが、店名の「貫」という文字は初代長治の《初心を貫く》と言う志から、一方「大」は創業340年京都すっぽん料理の老舗・≪大市≫から《大》の文字を一文字いただき『初心を大きく貫く』という信念を込めて、屋号を『大貫』と改名いたしました。 | |||||||
終戦後、息子の千坂吉郎(1910~1996)が二代目となり神戸の地を後にし、戦後の混乱を経て昭和27年(1952)尼崎に移転。 | |||||||
現在では孫で三代目の千坂哲郎と、曾孫で四代目の千坂創によって、【足踏たまご麺】と伝統の味を脈々と守り続けております。 | |||||||